47. 若栗玄

 若栗玄(わかぐりげん)を知ったのは30年ほど前、若栗が美麻村(当時)か ら松川村西原の山麓に移り住んだ時だ。
 若栗は、美麻村に居たとき無理が原因で結核になった。そして死と直面したが、松本の国立療養所に入院し完治した。医師から転地を勧められ、知人の紹介で 松川村に来た。私は当時、若栗の工房に近い借家に住んでいた。
 美麻村に住んでいた頃の若栗は、独特の技法で水彩画を描いていた。尊敬する洲之内(すのうち)徹のもとに数十枚の絵を携えて行き、認められ洲之内の経営 する現代画廊で個展を5回開いた。今回取材に西原の工房を訪ねた時、当時の作品を見せてもらった。その作品の中に、洲之内が保管していたが没後に若栗に返 却された2点が含まれていた。
 美麻村にいた頃の若栗は、存在する現実を画面に定着しようと命を削るように先入観を一枚一枚剥(は)ぎ取りモノを見詰め追求する作品と、その反動であろ うか愛する女性の裸像と風景を組み合わせ神(しん)歌(か)が聞こえてくるような絵を描いていた。
 この頃、若栗は洲之内とモノを見るという事について何度も話し合った。若栗には洲之内の言葉が重くのし掛かっていたのだろう、洲之内が亡くなったとき呪 (じゅ)縛(ばく)から解き放たれたように感じたという。
 私が初めて若栗の絵を見たのは長野のロートレック画廊だ。若栗は、松川村に来てからインドの仏跡や聖地を訪ねるようになる。画風も美麻村に居た頃の現世 から彼岸を探るような観点から、病で死を現実に覚悟したことで彼岸から此岸(しがん)を見詰め直すような眼差(まなざ)しに変わった。そして若栗はベナレ スでボートを雇いガンジスに浮かべ、彼岸に例えられる人の住まない東岸側から建物が密集する西側の此岸を臨む絵を、20年ほど前から描き始めたが未完に終 わった。
 今回図版に使った〈磧(かわら)〉は、高瀬川の東側河畔から望んだ黄昏(たそがれ)の有明山と、水鏡に映る有明山が描かれている。そこには此岸と三途の 川、彼岸を行きつ戻りつしながら「なぜ生まれ、どのように生き、死ぬのか」と問い続ける観照の目を感じる。画家だから「何を見て、どのように考え、表現す るか」と置き換えてもよい。〈磧〉には華やかな色彩は無く静寂で、全体が内なる光で皓皓(こうこう)とする様は涅(ね)槃(はん)を思わせる。
 〈磧〉を見ていると絵の質は違うが、草間彌生の生きる意義を問い続けるようにうごめく水玉や、葉脈のような無限の網を思い出す。私は日本画家の日比野霞 径(かけい)から、草間が松本に居たころ「河原の石の声を聴いた」とか「今日は、お花と話した」と言って絵を見せに来たと聞いた。草間の絵の原点には、松 本の自然に育まれた記憶がある。
 若栗は、20歳代に京都の安泰寺で沢木興道(こうどう)に3年間参禅した。当時の兄弟子に小諸の懐古園で草笛を吹いていた横山祖道などがいた。だが若栗 は仏者の道から外れ、絵に自己探求の道を求めた。若栗の絵の原点には、寺に生まれ見聞した生と死への問い掛けがあるのだろう。
 (美術史家・千田敬一=安曇野市)

 若栗 玄 わかぐり・げん (1926〜2009) 昭和元年、下 伊那郡喬木(たかぎ)村に寺の次男として生れる。昭和24(1949)年、東京美術学校図画師範科を中退する。飯田市でオバラ芸術研究所を主宰し、自由美 術展やアンデパンダン展に出品する。48年、北安曇郡美麻村(現・大町市美麻)に移り若栗峠から名をとり若栗玄の雅号で画業に専念する。以後、団体展に属 さず東京の現代画廊や長野のロートレック画廊などで個展を行う。昭和58年頃、松川村に移り馬羅尾画塾を主宰する。平成21年没。